壁は自分がつくるもの。答えはいつも自分の中に

アンチェ・ファン・フーク

2021年8月、TYPICAにジョインしたオランダ出身のアンチェ・ファン・フーク。以来、コーヒー生産者とロースターの媒介者として、「適切な人に適切なコーヒーを届けること」を意識しながらコミュニティづくりを進めてきた。

前職ではカフェのマネージャーなど、自身の強みを発揮できるホスピタリティ業界での仕事を6年ほど経験してきたアンチェにとって、未知の世界だったチームTYPICA。異言語が飛び交う異文化空間に翻弄された末に、自分自身を取り戻した彼女の現在地とは。

想像以上の「未知の世界」

2020年、スペシャルティコーヒーを扱うカフェでマネージャー的な役割を務めるアンチェは人生の転機を迎えていた。スタッフをトレーニングし、モチベーションが高まるように働きかける仕事は天職だと感じていた。だが、長時間労働や仕事の成果に見合わない低賃金が頭痛の種だった。

やがてその葛藤に折り合いをつけられなくなったアンチェは、超自然的な力を活用するボディセラピストとして独立する準備を進めていった。

そんなアンチェにTYPICAとの縁をもたらしたのが、私生活のパートナーである日本人のシンだった。コロナ禍で仕事が途絶えたのを機に、TYPICA・ヨーロッパチームの立ち上げメンバーとして働き始めていたシンから、「一緒に働かないか?」と声をかけられたのだ。

当然、同じ職場で働くことが二人の関係に悪影響を及ぼすリスクも考えられる。二人の関係を犠牲にしてまで、仕事を続けていくつもりはなかった。話し合った末、アンチェは「壮大なビジョンの実現に挑む会社で働けるのは一生に一度のチャンス。まずはやってみよう」と決断したのである。

それまで4軒のカフェのオープニングスタッフとして働いてきたアンチェにとって、スタートアップで働くことに抵抗はなかった。むしろ、変化していくことが楽しく、スタートアップに向いている人間だという自覚があった。日本に滞在し、ボランティアをしていたこともあり、日本の文化や仕事観にも馴染みがあった。きっとうまくやれるだろうという希望的観測が、未知の世界に飛び込む不安をかき消していた。

だが、入社して感じたギャップは、自分の想定をはるかに上回った。特に大きかったのが言語の壁だ。経営陣も含めたチームのミーティングに参加しても、日本語を話せないのは自分ひとりだけ。通訳者もいたが、限られた時間内で通訳に割かれる時間は少なく、断片的な理解すら得られなかった。他の人たちが言っていることをまったく理解できないのに、その場にいなければならない。無意味な時間を過ごすことが、苦痛でたまらなかった。

「当時は自分だけがよそ者だという孤独感に苛まれていましたね。こんなにコミュニケーションに苦労するなら、この会社にこだわる必要なんてない、自分を活かせる環境は他にもあるはずだと思っていました」

アンチェが入社したとき、TYPICAはヨーロッパでのローンチを2ヶ月後に控えていた。生まれて間もないうえに、知名度はゼロに等しい。このまま生き残れるのだろうか? 信用してもらえるのだろうか? この時期を耐えれば、時間が解決してくれるのだろうか? 

そんな疑念と不安を感じながらも、仕事にはスピードと結果が求められるのだ。経営陣が掲げる壮大な目標を達成するためにKPIをクリアしなければならない重圧とじっくりロースターと信頼関係を構築したいという思い。アンビバレントな感情に引き裂かれながら、「辞める」という選択肢について考えることで、アンチェは心の安定を保っていた。

それでもアンチェは今の試練を乗り越えれば、よりよい未来が待っていることを疑わなかった。どうすればそれを実現させられるのだろうかーー。未来を信じて前を向こうとする意識が、アンチェをTYPICAにとどめていた。

「私は感情の起伏がとても激しい人間です。嬉しくなったり、悲しくなったり、感情が目まぐるしく変わってしまうのです。でもシンは、そんな私に懲りることなく向き合ってくれましたし、私もよく耐えたなと思います」

原因は自分自身にあった

入社1年を過ぎた2022年夏、アンチェは最大の難関にぶつかっていた。思い返せば、いくつかのカフェではマネージャーを任せられ、スタッフの能力を最大限に引き出すリーダー的な役割を担ってきた。だが、まるでそのスキルや経験を活かせないTYPICAでは、存在意義を感じられないのだ。

その不安定な精神状態は、仕事のパフォーマンスにも直結した。負のスパイラルに陥った結果、ある時期を境に、身体も頭も動かなくなった。そんなとき(TYPICA代表の)後藤に自分の気持ちを率直に打ち明けたことが、アンチェの心に光をもたらした。

「私の経験上、オランダには平等性を重んじる文化があって、人々は皆、キャリアや役職を問わず、自由に自分を表現することができます。でも、日本の会社ではヒエラルキーが強く、上司や社長の言うことに従わなければならない、自分の個性や意見は封じ込めなくちゃいけない、と思っていたんです。

でも、それは思い込みでしかなかった。私は私です。私は人間であり、上司や社長も人間です。よけいな心配はすべて手放し、自分でブレーキをかけないようにすればそれでよかったんです。TYPICAではじめて、自分らしくいていいと思えた瞬間でした。以来、自分を表現できるようになったし、どんな感情を見せてもいいんだと思えるようになりました」

これまでの人生で、アンチェは喜怒哀楽をありのまま表現することを制限されたためしがなかった。自分を偽らなければならない葛藤に苛まれたこともない。たとえそれが客をもてなすホスピタリティ業界の仕事であっても、自分らしくいることに躊躇する必要がなかった。そんな環境で育ってきたアンチェにとって、TYPICAでの経験ははじめて直面する類の試練だった。

そんなアンチェが、2022年8月、オンラインで開催された社員総会で見たのは、すぐそばにあった眩しい世界だった。そこではじめて顔を合わせるメンバーが9割近くを占めていたうえに、メンバーと議論や会話を交わしたわけでもない。だが「私たちは同じ場所にいてつながっている」という実感が胸に広がっていた。

「TYPICAのメンバーはそれぞれとても純粋で、ヒューマニティに溢れた人たちなんだと。その核心に触れたとき『他の人たちは違う言語を話すから理解できない』と、自分で高い壁をつくっていたことを自覚したんです。その後、オンライン飲み会でみんなと交流を深めたことにも後押しされ、100%自分らしくいられると確信したんです。

だからといって、すべての課題が洗い流されたわけではありません。言語の壁については、いまだに葛藤しています。ヨーロッパチーム以外のメンバー間でのコミュニケーションは、Slackで日本語を中心に行われているので、内容がまったくわからないことが大半です。でも、Google翻訳を使うとなんとなく理解できますし、すべてが理解できなくとも、自分が知るべき情報を感じられたりもする。詳しく知りたければ、日本語と英語がわかるチームメンバーに尋ねればいい。

言語の壁は相手の人間性を理解するのにとても大きな障壁になることは確かです。でも、よくよく考えてみると、私は超自然的な力を使うボディセラピストとしてその人の人間性に近づこうとしていた。その意味では、言語や国籍などさまざまな境界線にとらわれず、コミュニティを築こうとするTYPICAの考え方は私に合っていたんです。

結局、思い悩んでいたときは、自分で視野を狭めて、小さな世界に閉じこもってしまっていた。だから、自分に原因があるとも気づかなかったんです」

必要なものはすべて、手の届くところにある

コーヒー生産者とロースターをつなぐ架け橋となる、コミュニティマネージャー。ロースターと生産者が絆を深められるように、アンチェはいつも個々の好みやニーズに応じた提案を心がけている。

「ロースターも私たちも人間です。私たちと同じように。彼らの人生にも喜びがあり、悲しみがあります。相手の個性を尊重しながら、互いの距離を縮めていく。それこそが他の会社とは大きく違うTYPICAの価値なのだと思っています。

だから、同じコミュニティマネージャーでもみんなそれぞれ違って当たり前。自分のやり方ではうまくいかないからといって、他の人のやり方や言葉遣いを表面だけなぞってもうまくいかないと思います。そこに誠意はこもっていないから、相手の受け取り方も変わってくる。どこまでいっても、私は私なのです」

他人の喜怒哀楽を我が事のように感じるアンチェにとって、「誰かをケアする」ホスピタリティ業界の仕事は自分の強みを存分に発揮できる場所だった。だが、その豊かな感受性は諸刃の剣でもあった。他人が背負う“荷物”まで背負ってしまい、心身の不調として現れることもあったのだ。

自分自身のケアを求めていたアンチェを新しい次元へと導いたのが、セラピーの世界だった。何らかの理由でズレた骨の位置を然るべき場所に戻していく施術を受けたとき、かつて味わったことのない感覚が身体のなかを駆け巡ったのだ。施術中、骨の動きを感知しながら、アンチェは魔法にかけられた気分に浸っていた。のちにその療法に関する専門的な知識を学ぶ中で、アンチェは仕組みを理解していった。

「その療法では、セラピストがクライアントの身体に触れて感情面や精神面の問題を取り除くのですが、感情や潜在意識も含めた全体的な視点で捉えて不調の原因を探します。頭ではわかっていなくても、身体や潜在意識はわかっていることがたくさんあるからです。だから時にクライアントの心を大きく揺さぶり、思いもしなかったことも起こるんです。

自分が必要としている情報やエネルギーはすべて、手の届くところにあるのだと思っています。どの道を選んでも、あるべきところにある。でも、心の状態が思わしくないと見つからないことがあります。だから私は何かに直面した時はいつも、過去の経験に立ちかえっています。経験が私にとって一番確かなものだからです。

答えはすべて自分の経験の中にあると信じられれば、きっとどんな壁でも乗り越えられる。神様であれ仏様であれ、その対象は何でもいいけれど、自分自身が100%信じられるものがあれば、それが何であるか、それを何と呼ぶかは重要ではないと思います」

ホスピタリティもセラピストも、コミュニティマネージャーも、つまるところ役割の上に貼り付いた名前でしかない。心身に不調を抱えた人を癒すことだけが「ケア」でもない。自分らしくいること、自分らしくいられる人を増やすこと。そんなアンチェの役割は、まわりに人がいる限り、果たされ続けるだろう。

「TYPICAは仕事ではなくライフスタイルです。ヨーロッパチームの人たちとはプライベートの話もしますし、一緒に笑うことも、一緒に泣くこともできます。この日常を壊したくないから、チームがこれからどんどん大きくなっても、私たちのカルチャーに合う人を探し続けたいなと。メンバーは皆、単なる同僚ではなく、私の友人であり、家族ですから」

文:中道 達也