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第8回

太陽の汗、月の涙~ペルーコーヒーの魅力は民の力

ペルーを漢字で書くと「秘露」…。秘境を連想します。自然条件はまさにそう。国の中央を標高6000m級のアンデス山脈が縦断し、切り立った峰の東側はアマゾンにつながるジャングル、西側の太平洋岸は砂漠です。高山と密林と砂漠という、人間にとって住みにくい三拍子がそろった土地柄です。

過酷な地でも人は生活しています。それどころかアンデス山中のクスコを中心としてアジア系の先住民が「黄金の文明」と呼ばれたインカ帝国を築きました。ところが海を越えてやって来たスペイン人に武力で征服されます。以来、500年間にわたって白人による支配が続き、先住民は抑圧に喘いできました。

地形は人間の生活に不向きだけど、コーヒーの生育には最適です。海抜600〜1800mの地域でコーヒーが栽培され、中でも標高1400m以上の一帯は寒暖差が激しく、スペシャルティコーヒーが育つ条件を満たします。そんな場所が広い国土の北から南まで分布し、変化に富む地形のため北部、中部、南部で豆に違いが生まれます。この国のコーヒーは多様性に富んでいます。

とはいえ自然の厳しさのため農民は生活するだけでも大変です。さらに経済では貧富の格差が激しく、政治では虐げられた民が反乱を起こしゲリラが活動するなど不穏な要素が絶えません。安心して生産に励むことさえ難しい。おまけにインフラ設備が整わず、製品を都市や港に運ぶ輸送道は悪路です。

輸出に当たって周囲の国との競争も不利です。国境を接したコーヒー王国のブラジルやコロンビアはカリブ海と大西洋に面して欧米への輸出で有利です。ペルーは太平洋に面していて日本向けにはいいけれど、欧米への輸出にはコストがかさみます。こうした数々の悪条件を乗り越えなければならないのです。それでも人々はがんばり、コーヒー生産が年々増えて今や世界第6位という成果を上げているから立派です。

マチュピチュにもコーヒー園

首都リマから早朝の飛行機に乗り1時間半弱、アンデス山脈の奥地にある山岳都市クスコに着きます。標高0mから、いきなり3400m。高山病の症状が出て息苦しく感じます。めまいがするし、歩くのもたどたどしい。せめて半日は宿で静養しましょう。コカの葉を煎じたコカ茶を飲みながら。

クスコは15〜16世紀にかけて最盛期を迎えたインカ帝国の首都でした。インカ皇帝は「太陽の子」と考えられ、黄金の飾りを身にまといました。黄金を求めて大西洋を越えて来たのがスペイン人。彼らは、これこそ目指す伝説の「エル・ドラド(黄金郷)」だと考えました。その欲望のゆえにたった168人の軍勢で2万人のインカ軍に戦いを挑み、勝ったのです。鉄砲という近代的な武器に加えて、当時の南米にはいなかった馬に乗った姿がインカの兵を驚愕させたのでした。大部屋1杯分の金と2杯分の銀を手にした征服者たちは皇帝を殺し、先住民を奴隷として富を収奪します。

クスコから山岳鉄道に乗って、ユネスコの世界遺産に登録されているマチュピチュの遺跡を目指しましょう。車窓に深い渓谷を見ながら3時間半。低地に下るので高山病の症状が消えて爽快です。マチュピチュ駅からバスに乗って30分、釣鐘のような山の外周を螺旋形に登ると、山頂に壮大な空中都市が現れます。なぜ、どのようにして、こんな辺鄙な場所に巨大な石づくりの集落をつくったのか…と感嘆し、しばらくは声も出ません。

マチュピチュ駅からインカの古道を歩くと、コーヒー農園にたどり着きます。地元の民なら30分ですが、都会の人は2~3時間かかります。ここらあたりはペルーの他の農園でもよく見られるように、農薬を使わないオーガニック・コーヒーを作っています。有機栽培を目指したというよりも、農薬や化学肥料を使うと費用がかかるので自然のままにしたよう。

山間の地なので広い面積はとれません。いきおい小さな農園が点在することになります。ペルーに約22万あるコーヒー農家の85%が3ha未満の小規模農園です。水道設備も整っていないので、アマゾン地域のほかは水洗式の加工より乾燥式加工が主です。乾燥棚を備えた生産者は少なく、地面で乾燥させるのが一般的。設備が整った精製所は遠く離れていることが多く、収穫してから精製まで時間がかかりすぎるのが難点です。

家族規模での経営は大変だし、有機栽培は手がかかります。でも、国連は2019年から2028年までを「国連家族農業の10年」と定めました。持続可能な開発のためエコロジーを取り入れた小規模農業を推奨しています。ペルーの農家の在り方は図らずも国連の目標に合っています。

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ゲリラに追われたコーヒー農民

インカ帝国を滅ぼしたスペインは副王を派遣し、沿岸部のリマを拠点として南米一帯を植民地として支配しました。先住民の土地を取り上げ、行き場のなくなった彼らを奴隷として銀山や農園などで働かせたのです。

虐げられた先住民はたびたび反乱を起こします。1780年にはインカ皇帝の子孫を名乗るトゥパク・アマル2世の大反乱が起きました。しかし、すべて武力で鎮圧されます。こうした過去を反映するのか1980年代までのペルーでは、先住民が暗い顔をしてうつむいて歩く姿をよく見かけました。

スペインから独立したあとも白人が政治や経済を支配し、先住民の受難は続きます。首都の中心部にある白人が住む地区では学校も病院もあるのに、貧しい人々が住む一帯には病院も学校もないという明らかな格差が見られました。

政府から放置された山奥では様々な左翼ゲリラが暴れます。1980年にアンデス山中のアヤクチョで蜂起した毛沢東主義の極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝く道)」は、残酷さで飛びぬけていました。指導者は中国帰りの大学教授です。村を襲い、村人の目の前で村長一家を惨殺するのです。体制側だと見れば、女性や子どもまで殺しました。

Photo: トゥパク・アマル2世の肖像画がリマの大統領官邸の壁に掲げられていた=1997年

戒厳令が出た1984年にアヤクチョを訪れました。空港の周囲には土嚢が積まれ、戦車が臨戦態勢、管制塔には兵士が自動小銃を構えています。2日前にゲリラ300人が近くの村を襲撃し幼児を含む21人を殺害したばかり。病院の病室はもちろん廊下も担ぎ込まれた負傷者で足の踏み場もないほどです。

地元紙の記者は「取材の際は前から来る弾よりも後ろから来る弾に気をつけろ」と忠告してくれました。ゲリラが襲った村に政府軍がやってくると、ゲリラは逃げます。軍はゲリラに好意的だった人を摘発し、村はずれで全員を射殺します。ゲリラより政府軍に殺される村人の数が多い。それが明らかになるとまずいので、軍は取材した記者を殺すというのです。人権意識が恐ろしく低い社会です。

このような危険な状況の下でコーヒー農民は働いていたのです。ゲリラは商品経済を否定し、コーヒー農園を荒らしました。村人は農村で生きて行けず、都市に逃げざるをえません。せっかく育てたコーヒー農園の多くが壊滅しました。

Photo: 民族衣装を着たアヤクチョの市民=1984年
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Photo: アヤクチョの街角=1984年

自立する人々、フェアトレード

どこまでも続く砂漠地帯に見渡す限り、粗末なムシロ小屋が並んでいます。4本の棒を立てた間にムシロを垂らしただけ。農村を追われて首都を目指した人々が国有地を勝手に占拠して住んでいます。ここは首都郊外のビジャ・エルサルバドル(救世主の街)と呼ばれるスラム。一帯に住むのは30万人もの人々で、7割が失業者です。この街は1986年、ノーベル平和賞の候補にもなりました。住民自身による町づくりと自治の取り組みが評価されたのです。

女性たちが大きな鍋でシチューを作っています。共同食堂です。夫の稼ぎでは生きていけないため、主婦が10人ほど集まって竹ぼうきの「会社」を作りました。竹の枝を拾ってほうきを作ります。材料を集める人、ほうきを作る人、街に売りに行く人、全員の子どもの世話係、食事を作る人、と仕事を分担します。何をどうするかはみんなが話し合って決めます。これはもう立派な起業です。いま世界で広がっている協同労働の先駆けのような組織です。人々は工夫して自活していました。

Photo: 砂漠にムシロ小屋が並ぶビジャ・エルサルバドル=1986年

スラムには自治組織があります。町づくりの中心は大学生とカトリックの神父でした。初代市長に選ばれたアスクエタさんは学生時代に貧困問題に取り組み、そのまま住みついた熱血漢です。神父はアイルランド人で、貧しい人々の地区に入る宣教師。二人が協力してスラムを自治体に再生させました。

11年後に再び訪れると、ムシロ小屋がブロック造りの家に進化していました。電気も水道も通っています。工業地区、住宅地区、農牧地区などに区画整理され、都市計画に沿って建設されたとわかります。家具工場では製品を国外に輸出していました。起業を支援する「連帯銀行」や立派な職業訓練所もあります。もはやスラムではありません。

Photo: ビジャ・エルサルバドルに住み着いて発展に尽くしたアイルランド人の神父と子どもたち=1986年

日系人大統領の登場と転落

1990年の大統領選挙で日系のフジモリ氏が大統領に当選しました。立候補した彼にインタビューし、当選後にも会いました。実直な人柄で、はつらつとしています。有力な白人候補に勝てたのは、虐げられてきた先住民が彼の側についたからです。政権を握るとアンデスの山中に学校を1日に5校のペースで建てるなど、貧しい人々のための政治を行って国民の7割の支持を得ました。彼が掲げたモットーは「正直、勤労、技術」です。明治時代の日本的な価値観そのまま。近代化を目指すペルーにぴたりと当てはまりました。

そのころのペルーは社会も活気づいていました。首都の下町の市場にカフェを開いていた女性リディアさんは「最初の元手は5ドルしかなかったけど、21人の仲間と共済組織を作って店を出すことができた」と言います。その仕組みの名は「タノモシ」。日本で昔から発達した庶民の互助組織である頼母子講が移民を通じてペルー社会に定着したのです。日本の制度が地球の反対側で役に立っているのです。

しかし、フジモリ大統領は伝統的な白人の支配層の反発を買います。軍によるクーデターの動きもあり、フジモリ氏は政権を維持するために白人富裕層寄りに政策を変えます。このため貧しい人々から見放され、大統領を辞めざるを得なくなりました。

日本に亡命した直後の彼に会うと、顔の変化に驚きました。数々の政争をしのいできたからでしょう、実直だった表情がまるでヤクザの親分のような顔つきになっていました。そうでないと政治のかじ取りはできなかったのが当時のペルーです。ただ真面目に働くだけでは生きていけない。それは一般のコーヒー農民も同じです。自助努力には限りがあります。勤勉に働く農民を応援しましょう。

Photo: 日本に亡命した直後のアルベルト・フジモリ元大統領=2000年

インカ帝国時代からの言葉に「太陽の汗、月の涙」があります。太陽が暑さのため流した汗が地球に落ちて金になり、月が暗い寂しさのためこぼした涙が銀になったという伝説です。金や銀は富の象徴です。昼は額に汗をかいて働き、夜は物思いにふける暮らしをしてこそ人間的で豊かな生活ができるのだと言いたげではありませんか。ペルーのコーヒーは太陽の汗と月の涙の結晶だと思って味わってほしいものです。

国際ジャーナリスト

伊藤千尋

国際ジャーナリスト。1949年、山口県生まれ、東大法学部卒。学生時代にキューバでサトウキビ刈り国際ボランティア、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧の流浪の民「ロマ民族」を調査。74年、朝日新聞に入社しサンパウロ支局長、バルセロナ支局長、ロサンゼルス支局長を歴任したほか、「AERA」創刊編集部員として東欧革命を現地取材するなど、主に国際問題を報道した。2014年9月に退職。NGO「コスタリカ平和の会」共同代表。これまで世界82カ国の現地取材をした。
公式HP https://www.itochihiro.com/