型にはまらない生き方で、誰かの望みを叶えていく

Ayumi Igari

早稲田大学政治経済学部を卒業後、外資系保険会社を経てTYPICAに入社し、ヨーロッパのコミュニティマネージャーとして働いている猪狩歩美さん。「相手にとって心地よい存在になり、その人の本当の思いを理解したい」という願いを胸に生きてきた彼女にとって、アムステルダムで暮らすこと、TYPICAで働くことはどんな意味を持っているのか。その胸の内を聞いた。(文中敬称略)

TYPICAで見つけた「新しい自分」

新型コロナウイルスが日本や世界に激震を走らせた2020年初頭。外資系保険会社の東京オフィスで働く猪狩は、人生の次のステージについて考え始めていた。

当時、入社3年目の猪狩は、社内の営業マンにアプリなどのITツールを提供するソリューション開発の仕事を担当していた。ヒアリングを通して相手のニーズを探り出し、それを形にしていくプロセスが仕事の醍醐味だった。

だが、緊急事態宣言を受け、会社が在宅勤務体制に舵を切ったことで、人とコミュニケーションを交わす機会は激減した。人間らしい生身のやりとりができないもどかしさを胸に、転職という選択肢は徐々に現実味を帯びていった。

そんな猪狩が新しい人生を手に入れるために真っ先に挙げた条件が、「アムステルダムで働く」ことだった。学生時代に留学で1年間過ごしたアムステルダムは、いつかは戻ってきたい場所だったのだ。

インターネットで求人情報を探し始めた猪狩は、ほどなくしてヨーロッパ拠点の責任者を募集しているTYPICAと出逢う。

「当時はまだ古いWebサイトで、デザインもあまり洗練されていなかったけれど、ブログからは人間味が伝わってきて、おもしろそうな会社だなと。業界や職種も違えば、国も違う。そんな環境で働くことに不安を感じたものの、最後は挑戦したいという気持ちが上回ったんです」

代表・後藤とのオンライン面接は、1時間の予定が2時間に延びた。事業内容やビジョンを語る後藤の熱量と本気度に圧倒された猪狩の胸には、この仕事を自分が背負いきれるのか、という不安が広がっていた。ほどなくして、TYPICAのためにも自信がある人がやるべきだと判断した猪狩は、面接の直後に辞退したのである。

だが、その後もTYPICAの存在が頭の片隅から消えることはなかった。合間を見つけてはWebサイトやSNSを訪問し、その世界に触れる時間が日常の中の楽しみだった。

そんな猪狩に福音がもたらされたのは、面接から約3ヶ月が経った2021年6月のことだ。ヨーロッパ部門の責任者となった西尾から「コミュニティマネージャーとしてうちで働きませんか?」と声をかけられたのである。

思いもよらない展開に、心が躍らないはずはなかった。二つ返事で引き受けた猪狩は保険会社を退職し、アムステルダムに移住。2021年10月からTYPICAの一員となったのである。

「生産者とロースターのつながりを媒介するオンラインイベントしかり、ロースターや生産者から得られるフィードバックしかり、自分がやったことに対して喜んでくれる人の存在をダイレクトに感じられることがやりがいにつながっています。

皆で達成感を分かち合えることも、今の仕事が好きな理由のひとつです。生豆のオファーでいえば、生産者とコンタクトを取るところから始まり、オファーリストを作成し、オファーを開始する。そして社内で共有されるロースターの反応やカッピング会で聞いたロースターの感想を生産者に伝える。誰かから受け取ったバトンを別の誰かに受け渡していくリレーのような感覚がありますね」

水泳やテニスなど、学生時代に熱中したスポーツはもっぱら個人競技。依存的な関係が嫌いで、集団で過ごすことに苦手意識を抱いていた猪狩だが、TYPICAでは新しい自分に出会ったという。

「独自のタスクや強みを持っている自立した人たちが、それぞれの強みや弱みを補い合いながら働く共同体のような感じだから、私に合うのかなと。社内外を問わず、コーヒーに対するパッションが強く、仕事だけど趣味のように働いている人たちに触発されることも多いんです。TYPICAに入ったことで、誰と働くかが大事だと気づかせてもらった気がしますね」

5回の転校から生まれたマインドセット

相手にとって心地よい存在になり、その人の本当の思いを理解したい。そう願う猪狩の原点は、転校を繰り返した子ども時代にある。ニューヨークで生まれ育った猪狩は、幼稚園のときに日本に引っ越して以来、10年間で5~6回、時には国をまたぐ引っ越しと転校を経験したのだ。

定期的に環境が一新される日常において、最大のテーマはどうすれば新しいコミュニティに溶け込んでいけるかだった。

「自分がそこで何をしたらいいかわからない気持ちになることが多かったからか、人を一人ぼっちにさせたくない気持ちが根本にあるような気がします。友達がいなさそうな人や変わっている人と仲良くしたり、変わっている人どうしをつなげたりするのが好きだったのも、無意識に自分自身を重ねていたからでしょうね」

短期間で出会いと別れを繰り返す生活のなかで、猪狩は必然的に適応力を身につけていった。

「通う学校によって別人になっていたというか、友達になるタイプも全然違ったように思います。ある学校では『勉強好き』な自分がいて、別の学校では『スポーツができる』自分がいた。どれも偽っていたわけではなく、すべてが自分の一部です。人はいろんな面を持っていていい、というのが私の考え方ですね。

子どもの頃にいろんな人に会ったぶん、『世の中には自分とは合わない人がいる』ことが私の前提になっています。だから、合わない人の中にも魅力を見つけられるかが勝負なのかなと。この人は嫌だなと思っていたら、自分が嫌な気持ちになるし、相手にもそれが伝わるでしょうから」

かくいう猪狩だが、環境の変化に慣れていない時分は、前の学校(過去)と比較し、現状に失望することもあった。だがある時、自分がいなくても世界は回っている、そう気づいた猪狩は「過去を引きずる自分」を断ち切り、ゼロから人生を始める感覚で新天地に溶け込んでいくようになったのだ。

もっとも、現在27歳の猪狩はいわゆるデジタルネイティブ世代の一人である。小学校の頃から日常に浸透していたAIM(LINEのようなメッセージアプリ)やFacebookを開けば、友達に“会えた”ことも、転校生活を乗り切れた一因だった。

「今もそうですが、別々の場所で暮らすようになっても永遠に会えなくなるわけじゃない、飛行機に乗れば会いたい人にすぐ会える、という事実が心の支えになっている気がしますね」

自分らしさを最大限に発揮する

アメリカで暮らしていた頃、「土曜日は日本語を学ぶために日本人学校に通う」習慣は、猪狩にとって楽しみを見出しようがない義務でしかなかった。

日本人学校のせいでアメリカの友人が集うダンスパーティーに参加できないうえに、課せられる宿題も多いのだ。自由を奪う「日本人」というアイデンティティはまさに目の上のたんこぶだった。

「本当はアメリカ人の輪の中に溶け込んでいきたかったし、このままずっとアメリカに住んでいたい気持ちもありました。でも、中学3年生のとき、娘がアメリカ人になってしまうという危機感を抱いた親から日本に強制送還されたんです(笑)」

5歳から9歳まで過ごした東京に戻り、私立の女子中高一貫校に入学した猪狩は、「厳しすぎる」校則にカルチャーショックを受けた。制服の着用義務にはじまり、髪を染めるのもダメで、化粧やネイル、ピアスもダメ。かたや小学生でもピアスをつけて通学するのが一般的なアメリカで自由な空気を吸ってきたぶん、非合理的で画一化するようなルールは窮屈に思えて仕方なかった。

3年間溜め込んでいた鬱憤は、もはや臨界点を超えようとしていた。高校を卒業した猪狩は、それをぶちまけるように大学1年の2月、バックパックを背負い、友人とともに海外へと旅立った。

「私の人生のモットーは、自分らしさを最大限に表現すること。“日本人らしさ”や“人が期待する自分”といった型にはまりたくない思いがすごく強いんです」

それこそがアムステルダムに惹かれた大きな理由でもある。

「アメリカも移民が多いけれど、二世代、三世代と続くうちに独自のバックグラウンドや文化が少しずつ薄れていく印象がありました。かたやアムステルダムは、いろんな国の人たちが自分たちの独自性を失わずに生きている。あなたのままでいていいと言われているような感覚がとても心地よかったんです。

それから約5年。アムステルダムに引っ越してきて改めて実感しているのは、自分の人生は自分で楽しませなきゃいけないということ。海外に引っ越すのは大きな決断だったし、尻込みするところもあったけれど、いざ踏み込んでみたらもっと早くやればよかったという気持ちしかありません。今は、失敗しても自分でなんとかできるという自信が保険になっていますね」

そんな自信の源には、日本からアメリカに引っ越してきた小学校3年生のときの成功体験がある。アメリカは生まれてから5年間過ごした場所とはいえ、英語はほとんど話せない状態である。まわりの子たちと話したいのに話せない。人間関係を築けないから、仲間に入れてもらえない。立ちふさがる壁を前に、猪狩はかつてないストレスを抱えていた。

まだ9〜10歳。自分の感情を処理するのに慣れていなかったことも手伝っただろう。不安定な精神状態がアトピーの症状として表れた時期もあれば、サンタクロースへの手紙に「死にたいです」という願い事を書いたこともある。結果的に“暗闇”から這い出すことができたのは、逃げ場のない環境のおかげだった。

「親からは学校を休むことは許されず、意図的にスクールバスに乗り遅れても、強制的に車に乗せて学校に連れて行かれていました。現実と向き合わざるを得ないなかで、ESLの授業で英語力を身につけたり、運動会で活躍して友達を作ったりと、自ら動いて状況を打開しようとするうちに友達もできて、学校生活も徐々に楽しくなっていったんです」

飽きている場合じゃない

TYPICAで働き始めて約9ヶ月。私の居場所はここだと思える場所にめぐり逢った猪狩だが、「極端な性格」を自覚するだけに心配事もあった。

猪狩が3年ほど読書にのめり込んだのは、小学生時代のことだ。近隣の図書館にある本では飽き足らず、出版したての単行本を買ってくれと親にせがむことが続いたからだろう。「(お金がかかりすぎるから)もうちょっとじっくり読んでくれ。本を読むのをやめてくれ」と親から“苦情”を言われたこともある。だが、中学校に入学し、スポーツに興味が移った瞬間、本を開くことすらなくなったのだ。

「その経験にTYPICAを重ねていたのですが、次々と新しいプロジェクトが始まっている現状からすると、ジャンルの違う趣味がどんどん増えていく感覚があって飽きる気配はないんです。

結局、読書は自己満足ですからね。一方でTYPICAは、生産者やロースターに貢献するという目的が明確だから、飽きている場合じゃない。世界にはまだ会えていない生産者やロースターがたくさんいると思うと、ワクワクしてくるんです」

誰かの期待に応えたいという思いと、心の赴くままに生きたいという願い。その狭間で揺れ動きながら生き方を模索してきた猪狩にとって、TYPICAは両者がうまく調和し、互いを引き立て合うフィールドなのだ。

「コーヒーのサプライチェーンに関わるすべての人が満足できる社会づくりに貢献することが今の目標です。私自身については、関わるプロジェクトによって役割は変わると思うので、将来どうなっているかはわかりません。でもそれでいいし、それが私なんだと思っています」

文:中道 達也
写真:Shigeo Arikawa